« 熊坂ゼミテキスト | メイン | 熊坂ゼミテキスト »

2004年05月16日

●熊坂ゼミテキスト

柳沢教授の生活の分析をしました@熊坂ゼミimapcs
興味がある人は続きをどうぞ。

「柳沢教授の生活」分析バイ小林悠

「いいもの」が、わからないわけじゃない。
帝国ホテルのバイキング、食べたことあるし、ローストビーフおいしかったし。
けど、コンビニで売ってるかにぱんのほうが毎日食べれておいしいじゃんねえ。

モーニングに隔週で掲載される「天才柳沢教授の生活」は「いい」話だ。
それは柳沢教授が「人間への好奇心」をもって行動している物語であり、そして人間というのは少なからず「いいもの」だからである。

ってのは嘘。

実際のところ人間は特別「いいもの」ではない。人殺しも窃盗もカンニングも、全て人間がすることだ。理由といえば「うるさかったから」「ほしかったから」「あそびたかったから」とかなんとか。けれどそれは、全然、「あり」だ。それにいちいちちょっと「いい」話をつけれるわけではないのだ。柳沢教授が「人間への好奇心」をもって狂言回した数々のストーリーは、あくまでもちょっと「いい」話をであり、それは凄みを持った本物の「心の琴線に触れる」話ではけしてない。けれどそれでも、全然、「あり」だ。だって、帝国ホテルよりコンビニのほうが居心地良い。

作者、山下和美はマンガを誠実に愛する人だ。「摩天楼のバーディー」のトキオを「もっといいストーリーに乗せてあげたかった」と後悔するG4使いで、三谷宏喜の「オケピ!」を観て「私がかきたかった、しかしできなかったキャラクター設定がそこにベストな状態で集約されていた」と感心する40歳(推定)だ。ドラマの展開が予想通りで喜ぶ女子高生を見て「浅い想像力の範囲内で展開するドラマがいい ということは、浅い想像力を越えるドラマはつまらんということにもつながるから、物書きの危機の時代、そんな気がしてしょうがない。」な~んて言ってしまう。「天才柳沢教授の生活」を考え描く彼女は「物書き」なのだ、けれど実は天才ではない。彼女は努力家で、ある程度秀才だ。だって、ローストビーフもかにぱんも、おいしいっちゃ、同じ、おいしいのだ。

ってのが本当。

だから、「天才柳沢教授の生活」はウェルメイドな作品である。モーニングを読み勧めてあの目の細ーい顔の扉にあたると、「ああ、今週のちょっといい話、はじまり~」ってなものである。それはTVをつけて「HR」がやっていると「ああ、今週のちょっと笑える上品なコメディはじまり~」というのと同じ構図である。それに対して読者が心の琴線を震わせることはあまりない。(泣くことくらいなら簡単にできるけど。)なぜならば作品の中で「なにが起きてどう感じてこういう流れでこういう結論になった」という「いい」話となるまでの流れが起承転結しているからで、これはテクニックである。三谷宏喜も山下和美もテクニシャンであり、三谷宏喜はテクニシャンとして天才かもしれないが、山下和美はテクニシャンとしては努力家以下でも以上でもない。そして起承転結をドラマティックにするために、三谷宏喜はコミカルな演出という技術を、山下和美は雄弁な無言の顔アップコマという技術を持っている。観客は流れに乗っていれば結論を知ることができて、簡単に「いい」話を頭の中に通過させることができる。実にコンビニエントな楽しみであり、受身であり、けれどそれは、全然、「アリ」だ。だって、ローストビーフは高いし重いし、日常にはヘビーだよ。

コンビニのかにぱんが好物な山下和美読者は、隔週で教授に会えることを楽しみにしている。会って「いい」話を期待している。教授はその期待を裏切らない。細い目で人間観察を続けている。教授は性犯罪について考察しないし、何で人を殺したらドラム缶で海という型があるのか考えない。教授は陽だまりや、孫娘や、古くからの友人、若々しい学生、そんなもので暮らしてる。ほんとうは、殺してやりたいようなあいつ、蹴飛ばしてしまいたいようなこいつ、日常にはいる。ほんとうに「あり」なことだ。しかし教授はその世界をスルーして今日も「いい」話を、僕の・私の想像力を越えるドラマを話してくれる。ほっとして、安心して、いい気分になれる。ほんものの、運命とか人生とかが持つ凄みはそこにはないけれど、気持ちよくなれるほうがいい。甘くてもそもそしている120円のかにぱんは、日常の中でクセになる。

彼らにとって日常はいつも日常だ。つまり、変わりなく、自覚なく、感動がない。蝉が鳴くこと、ペンが転がり落ちること、そんな「日常のヒトコマ」にいちいち心を動かしていたら、きっとHPがすり減って死んでしまう。日常は「日常のヒトコマ」の連続で、それは何も感動するようなことじゃない。そして限りない。始まりも見えないし終わりも見えない。自分が今人生の頂点なのか底辺なのか、もちろん自覚できるわけがない。ただ、「いい」ものがあることは日常でもわかる。いや、彼らに「わかる」「いい」ものがあるということだ。感受性豊かとはおそらく言いがたい彼らだけど、ローストビーフがおいしいことはわかる。アンダースタンド。かにパンがおいしいこともわかる。アンダースタンド。けれど見たこともないようなディナー(何とかの何とか風何とか何とか添え)、おいしいことを知らない。ノットアンダースタンド。日常の中で「いい」ものがコンビニエントに欲しかった彼らは教授の台詞なしアップコマに「いい」ものがあるんだろうと言うことを理解する。コングラッチュレイション。このコマがいい!このコマで泣ける!それはすごくわかりやすい「いい」もののある場所であり、「日常のヒトコマ」を生きる彼らが理解できるコンビニエントさをもっているのだ。だから教授は日常に消費され、過去になる。「いい」話、で終わってしまう。つまり、おいしかったけどあとにはなにものこらない、ヤマザキのかにパンだ。

ところで、帝国ホテルでディナー、誘われちゃったらどうしたらいいんだろう。
(見たこともないお料理、やったことのないテーブルマナー。)

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)