●熊坂ゼミテキスト
釣りキチ三平の分析をしました@熊坂ゼミimapcs。
私はこのゼミの作業が大好きです。
二日間PCとにらめっこになってしまうけれど、
ここまで暮らしの成り立ち、人の群に対して大胆かつ論理的に迫る作業も珍しい。
楽しくてたまらないです。
興味のある方は続きをどうぞ。
「釣りキチ三平」分析バイ小林悠
昔、流行ったものがある。
ABBA、ドカベン、酔拳、ぺヤングソース焼きそば、アメリカ村
今、手にするものがある。
ルーツ、イトーヨーカ堂、週間ポスト、エルグランド、Ezweb
僕達は、あの頃とこの頃を行き来しているのさ。
体は歳をとってしまったけれど、心は衰えない(つもり)。
女房はいるけれど、いつだってまた恋はできる(つもり)。
ただどうしても、あの頃にいい思い出ばかりが残っているんだ。
「釣りキチ三平」は天才釣りキチ少年三平が冗談のように豊かな自然の中で活躍する少年漫画だ。登場人物は歳をとらない、性欲をもたない、物欲をもたない、の3ない仙人(現実で強い欲求を持っていない仙人のような人格のこと:小林の造語)であり、なぜかといえばそれが思い出の綺麗さだからである。否、順序は逆かもしれない。思い出として生き残れる要素をこの漫画が持っていることが重要だったとも言えよう。
この漫画の主な愛読者が中年男性であることはまず明確であり、さらに彼らが週間ポストを愛読してルーツを飲み黒生を楽しみにするそのへんのおっちゃん(タクシー運転手にイメージは限りなく近い)であることも解る。大切なのは、なぜおっちゃんがいまだこの釣り漫画を愛するのか、という点だ。一見すると釣り好きが愛する漫画だが、実はかなりの読者が「僕は釣りをしませんが、この漫画は大好きです」と褒めている。実際私も釣りはしないがこの漫画は大好きです。学童保育で読んだから。スキー場で父と読んだから。おじさんちにあったから。私も彼らも「昔」この漫画を読んで興奮したのだ。「細かいストーリーは覚えていないけどキャラクターが好き」「話の展開もキャラ構成もいつも似てる(三平挑戦→ライバル大物釣る→三平沼の主を釣る)、けど面白いし絵がきれいだからいいじゃん」という感想からも、好まれたのは具体的なエピソードではなく、三平活躍珍道中のワクワクなのだろう。魅力的なキャラクターと当時読んで興奮したという読書体験が、今やおっちゃんとなった少年達の心に火をつける。そしてついコンビニで買ってしまうのだ、ヤンサンの隣においてある「釣りキチ三平クラシック」350円を。そして思ってしまうのだ、「久しぶりに釣りに行こうかな」。だけど多分彼らは行かない。新緑の五月せせらぎの中で岩魚釣りとはならない。現実に釣りをするためには餌練りや用具の手入れが大変なのだ。彼らはあの頃を愛しているかもしれないが、この頃を生きる疲れたおっちゃんなのである。
「釣りキチ三平」は1973年、少年マガジンから「明日のジョー」「巨人の星」がいなくなって頭角を現し始めた。そして現在も「釣りキチ三平平成版」が描かれ続けているということは、実に30年間も一つのキャラクターでストーリーが続いているということだ。それを可能にしたのは歳をとらない設定(VS「赤ちゃんと僕」)、問題に向かって解決を図るわけでないストーリー(VS「名探偵コナン」)、主人公が天才ゆえ成長がメインに来ない展開(VS「明日のジョー」)、シーンの「日本の田舎」という漠然さ(VS「ピーチガール」)、釣りというライバルは自分な勝負競技の性質(VS「ヒカルの碁」)、そして作者の持つ堅いポリシーだ。曰く、「情景描写に秀れた「絵」と、心理描写に適した「文章」をドッキングさせたのが「マンガ」ではないか。つまり「マンガ」は、実に多くの可能性を有するメディアであり“芸術”だと、ボクはずーっと思い続けて来た」。確かに矢口高雄は自然描写が巧みで画力があり、ストーリーもコンパクトで濃密に作り上げることができる。その才能を腕に、前職銀行員を辞して30歳で漫画家になったことは矢口高雄の売りの一つだ。彼は芸術を志したのである。漫画が粗悪なものとされた昭和中期に「漫画ってすばらしい!」ということを声高に表明したかったのだろう。そのためにテーマは高尚なものである必要があり、絵柄も高度なものである必要があった。下劣な性欲、暴力を認めることはできなかった。手塚治虫、石森章太郎、白土三平が作った漫画文化を世間の風から守り認めさせるために、隙のない漫画を描くという宿命を背負っていたのだ。隙のない漫画、それがすなわち3ない仙人キャラクターが自然と関わる様を豊かな画力で書いた「釣りキチ三平」なのである。そしてその漫画は、その上手さゆえに熱狂的に当時の少年に受け入れられ一大釣りブームを巻き起こした。さらに上記の設定の妙で30年間も生き残ることができたのである。つまり「釣りキチ三平」は長寿の要素をたっぷりもったあの頃の流行漫画だったのだ。だから今更「三平INカムチャッカ2004」なんて新作を出して、あの頃の少年、この頃の中年を夢中にすることができるのだろう。
加えて、おっちゃんたちがあの頃をいまだ愛していることもご長寿三平の一因だ。具志堅用高・アンドレ・ザ・ジャイアントがアントニオ猪木よりも人気、輸入ビールクアーズが黒生よりも人気、ホンダシティ1位→三菱パジェロミニ最下位、アウトドア・アロハ・アメカジは記憶にあるけどinedって何?食べれるの?というクラスターである。あの時の憧れ、背伸びしてスタンダードという物品の人気が今だに高い。もうEzwebが使える21世紀であり東芝DynaBookも買える収入があるのに思い出すのはNEC PC-9801であり超合金シリーズなのだ。ピンクレディよりもかぐや姫・サンタナを愛しちゃうその嗜好は、リアルでタイムリーに名作と出会って育ちましたという説得力がある。つまり彼らは、流行・ブームが生き生きとしていた、熱狂がマス的であり時代の目玉は一つでよかった、そんな70年代半ばから80年代半ばに青年だったのだ。だから回顧しやすいあの頃が好き、竹の子族とかいて馬鹿みたいだったあの頃が好き、下宿で食べたペヤングソース焼きそばが懐かしい。そんなおっちゃんたちの輝ける青春時代に「釣りキチ三平」は彩を添えていたのだろう。少年マガジンに面白い漫画あったな、釣りの、あのムツゴロウとか釣る少年で、えっと「釣りキチ三平」だ!、ああ、あれ楽しみだったなあ、今でも売ってんのかなあ?、と過去に欲情する。それは少し同級生の女を思い出す感覚に似ていて、彼女の綺麗なところばかりが思い出され、意外と汗っかきだったことやちょっと爪を齧る癖があったことは思い出せない。そして同窓会でいざ再開すると、若さゆえの綺麗さは失われ、汗っかきで爪を噛むおばさんと対面してしまう。ところが「釣りキチ三平」は失望させない。今読んでもワクワクするし、今でも田舎があるという現実性、加えて絵も綺麗でとっつきやすい。おっちゃんは簡単に過去と再び恋に落ちることができるのである。「釣りキチ三平」はそのクオリティの高さゆえ、永遠のクラスのマドンナになれたのである。(余談だが、「釣りキチ三平」には少女以上の女がまず登場しない。「わがままでおきゃんでおてんばでかわいらしい」少女が描かれるだけで、それらはまさに少女の特権である。母性や夫婦愛といった円熟した女は少なく、それはおっちゃんのあの頃の回顧にそんなしみじみとしたものは邪魔だからではないだろうか。)
「週間プレイボーイ」を買うのをやめて「週間ポスト」に変えたころ、おっちゃんたちのあの頃はこの頃になった。みんなが熱狂した紅茶キノコも腐りはてアイビールックも押しやられ、レインボーブリッジも庄野真代も当時の輝きを失った。だけど「釣りキチ三平」は今でもまだ輝いている。「平成版三平」として輝いている。それに固執することが外から見て物悲しいとしても、コンビニで「釣りキチ三平クラシック」とタフマンを買う中年男性が滑稽だとしても、いいじゃないか、彼にはその魅力があるんだから、あの頃の高揚感をまだ味わえるんだから。